研究の概要(前書きから)



 梅雨の中休みのある夕暮れ時、護国寺にある講談社を訪れました。その帰り、東京駅から新幹線で小田原まで帰ってみようと思っていたので、近くにいた警備員さんに東京駅までどう行くといいのかを尋ねました。

 警備員さんは東京にいくなら、こういくとよいんだよと親切に電車の乗り換え方法まで説明してくれました。そのとき近くにもう一人の警備員さんがいました。最初は黙って聞いていたのですが、その人は途中から我慢ができなくなったようで、東京駅なら別の経路の方がよいと全く異なる経路を教えてくれました。それから、2人の間でどちらの経路がよいかという議論がはじまってしまいました。どうやらお互いに主張しているルートをゆずらないようです。質問した私を蚊帳の外において。

 こういうとき、人の頭の中にはどのような(地理)情報が入っているのだろうかと不思議に思います。勤務しているところから東京駅のような有名なところに行く近道が人によって大きく異なっているというのはどういうことなのでしょうか。

 方向オンチといういくぶん刺激的な言葉をタイトルにしたのには理由があります。第1章で述べたように、方向オンチというのは一般には道に迷いやすい人を示す言葉です。ある建物の中に入っていって、さあ帰ろうと思ったときに、こちらが正門のはずと指さす方向が人によって全然異なることがよくあります。これは、確かにある種の能力に関係しそうです。でも、これができないひとが本当に迷うのでしょうか?また一方で「方向オンチ」を語ることが好きなひとたちがいます。この研究をはじめてから多くのひとが「実は私も方向オンチなんです」といって、体験談を話してくれました。まるで世の中の半分以上の人が方向オンチなのではないかと思えるほどです。方向オンチという言葉は一般に根付いているようですが、本当に正しく理解されているのだろうかという疑問がこのテーマを選んだ理由です。

 さてこの本を書き上げてみて、私たちは「方向オンチとは何か」という疑問はいくらかは解明できたと信じています。しかし、まだまだ研究すべきことはたくさん残っています。でもこのように簡単に答えを出すことができない現象こそがおもしろいと思いますし、研究として、チャレンジしていくべき課題の1つなのではないかと思っています。

 私たちはこの方向オンチというトピックに認知科学の枠組みでアプローチしました。この本をきっかけにして、少しでも多くの人たちが認知科学や心理学に興味をもっていただければと思います。